一昨日、父の四十九日の法要が無事に終わりました。
本当はまだ一か月強でしたが、お坊さんのご都合で、少し早まりました。
5度で雨の続く、寒い一日でした。
偶然とは思えぬタイミング
一晩明けた翌朝、胸がざわついていました。
手続きの件で、「連絡をとらねば」と朝からずっと考えていた叔母が、なんとその朝亡くなったと、夕方に連絡が入りました。
言葉がありませんでした。
その娘さん(私のいとこ) からは、父の他界後、10年以上ぶりにメールをもらっており、温かいお言葉をかけてくれていた矢先のこと。
法要終了の報告をしようと思っていた最中でしたので、胸が裂かれる想いでした。
いろいろなことが重なる時があるものですね。
法要を行う理由
ところで、お経をあげて頂いた後、お坊さんが四十九日の法要の意味を解説してくださいました。
(うろ覚え、聞き違いで、事実とは違う点もあるかもしれません💦)
本来は、菩提樹の下で瞑想をしていたブッダが、悟りを実感したのが四十九日目でした。
(古代インド仏教では、亡くなった人は、七日ごとに小さな転生を繰り返しながら、四十九日後にあちらへ渡る、という考えもありました。 )
亡くなった人が、この世での感覚や思いを少しずつ脱ぎ去って、あちらへ渡っていく日として、
まだこちらにいる私たちが、無事、浄土へあがっていけるよう手を合わせ、背中を押し、送り出してあげるのですね。
そして、さらに先へ進んでいけるように、バックアップしてあげるのが新盆、一回忌、三回忌…といった追善法要であり、私たちにとっては、故人を改めて思い出す、温かい節目にもなります。
様々なしきたりや形式にこだわらず、
「気持ちをこめることで、いつでもどこでも、気持ちは通じる」
とは思いますが、知識があると、より深く気持ちを向けられますので、お坊さんの解説が有難かったです。
それにしても、すごく不思議なタイミングでの、叔母の死。
父が四十九日の追善供養を経て、軽く旅立て、あちらで準備が整ったから、
翌朝、叔母も安心して逝けたのかな。
父が、安らかに上に上がっていってくれていること、
そして、お姉さん(叔母)を、笑顔で迎え入れてくれたらと祈るばかりです。
こちらにいる身としては寂しく、勝手な解釈しかできないけれど、
ただ、祈ることで、穏やかな気持ちに整えたいと思います。
それがただ今、自分にできること。
分からないことは分からないままで良く、
自分にもくるその時まで、この命(体)を生きるのみ。
今日も公園を歩けるこの体に感謝して(笑)、自分への覚え書きとしました。
しんみり内容ですが、お読みいただき、有難うございました。